無事手術終了?
アルコールについて
この歳になって『さけばっかのむから』『自業自得だよ』って言われるけど、俺からも言わせて欲しい、高校卒業し、前の話でした施設も追い出されるし、その施設で経営してるシェアハウス的なところに住みながら仕事もしてて順調に暮らしてお酒も飲んでたが(1週間一日程度)親父はまだ服役中!前に話したハンドルのついてない自動車と同じだ!順調に行くわけでもなく、大人になっても規則に縛られる生活が嫌になり家出をして、色んなところに住んだ、でも住むとなれば職も必要になって来る、住むことろがあって仕事もできるとしたら派遣ぐらいしかないのだ、職場によるかもしれないが、派遣社員とは普通の社員と違って手取りはいいが仕事がだいたいきつくて長時間労働が多いのだ、仕事はきついでもやめたら帰るところもなく住むところもなくなる、生活するためにはしがみついてでも働くしかない、でもそのプレッシャーから解放してくれるのがお酒だった、お酒飲んでる時だけがプレッシャーから開放されたそれが癖になり親父と暮らす頃にはもう肝硬変になってたのかもしれない、心の甘えだろって思う人もいると思うけど俺にとっての逃げ道はそれぐらいしか無かったっていいわけさせてw
生い立ち(その8)
奄美大島に帰ったあとの記憶はそんなに覚えては無い、家に親族が集まり通夜みたいなことをしたり、骨壷を収めたり、あとはちょっと観光したぐらいかな?思い出がないと言うよりかは、思い出したくもない、数日島で過ごすことになったあと、ある日姉と兄に呼び出されとんでもない選択を迫られた!それはこれからの生活、きょうだいと生きていくか、服役中の親父をまつのか?の選択肢を出された!もうここで家族には戻れないと確信した、そして俺は親父を選び職員の支えは色々あったものの1人で生きていくことを決心した!中二の夏だった!でも1人になって色々成長できたようなきがする、いろいろなものなくしすぎたきもするけどね・・・
独り言
最初に恨んでないとブログで言ってたが1人だけ殺したいほど恨んでるヤツがいる、姉だ!
生い立ち(その7)
中二の夏頃、母親もお酒を控えるようになり、ちょくちょく施設に面会に来てくれたり、家に帰らせても問題無いということで外出外泊の許可がおりるようになった。
母と外出したり買い物とかも連れて行ってもらって、誕生日の祝えてもらってなかった分のプレゼントなど買って貰って喜んで施設に帰った数週間後の事だった・・・職員達が企画してくれたキャンプを楽しみ施設に帰りついて片付けをみんなでしていた時だった。
何故か俺だけ職員に呼ばれ、ついて行った先で職員に言われた言葉が『昨日母親が・・・亡くなりました』と告げられた・・・
一瞬何を言われたのか理解できなかったむしろ職員の悪ふざけかと思ったぐらいだ、しばらくしてやっと言われた言葉が理解出来たが、理解したくなかった。
涙が止まらなかった箱ティッシュ1箱分使い切るほどに涙が止まらなかった、唯一の望みだった家族でまた生活するという事が不可能になったのだ、その時点で自分の中にある何かが切れた感じがした。
母の死で親族が集まることになり、長期の外泊許可がおり、葬儀と火葬が行われ、母の故郷である奄美大島に骨壷を持ち帰ることになった。
生い立ち(その6)
その前に親父の事を語ろうと思う、手紙のやり取りは月一でしててまだ刑期も決まってなく、俺が中二になったばかりの時に親父の刑期は決まった!懲役12年の刑が下されたのだ、家庭内暴力は罪が重いと聞いていたがこれはあまりに重すぎる刑だった!殺人罪の人より下手したら重い、何故こんなに重くなったのか?当時は分からなかったが出所した親父に聞いたところ、これまたテレビでしか見た事がない回答がかえってきた、拘束されて捕まってた警察署が当時、所長自身が自署の金庫を盗みだして逃走しだしたらしく、ニュースにも取り上げられたらしい。
その事があったことで世間の信頼がただ下がりになったためにその時タイミングよく捕まった親父で名誉を取り戻そうとしたらしく事件を大きくさせたとか、ここからは憶測でしかないが、弁護士も雇う金などもちろん持ち合わせていなかったため国選弁護士が着くことになったのだが、検事と裏でお金のやり取りがあったのか、裁判とかでも全然弁護してくれなかったとか。
おそらく警察署から金を積まれ検事と弁護士で組んでたのかもしれない。証人も呼べたのだがほんとかどうか分からないが呼ぶはずだった証人も病気でなくなってたとか、もうこうなると裁判で被害者と検事の一方的な発言で12年という長さになったのであろう・・・
じゃなきゃそれぐらいの刑の長さにはならないはず
次回からは話に戻ろう