無事手術終了?

9月22日ようやく手術を受けることが出来た!そして無事成功!そして目が覚めたのは23日の夕方ICU(集中治療室)で目を覚ましたのだがここからが地獄だった💦、まず、周りにモニター類と機械がいっぱい繋がれて体には首、腕、腹、気管に管が入っており点滴も数十本繋がれてる状態だった、もちろん1人で寝返りも打てない、目が覚めて、最初の一日は声もまともに出せなかったwまぁリハビリとか色々辛いことはあったが、1番辛かったのがほぼ一日中仰向けで寝てるってことと眠れないってことだったかなw看護師呼ばないと寝返り打てないし、薬の副作用と機会とセミの音で夜寝れない、昼に限界で寝ても起こされるし一日中起きててそれが3日ぐらい続くとイライラしてさらに寝れなくなるし、幻聴、幻覚見えたり聞こえるし天井のただの模様がなんか文字に見えてきたり、もういっその事殺してくれと何回思ったかwでも色々なひとから貰った応援もあって何とか乗り切れることが出来ました、ほんとに感謝!ありがとうございます

アルコールについて

この歳になって『さけばっかのむから』『自業自得だよ』って言われるけど、俺からも言わせて欲しい、高校卒業し、前の話でした施設も追い出されるし、その施設で経営してるシェアハウス的なところに住みながら仕事もしてて順調に暮らしてお酒も飲んでたが(1週間一日程度)親父はまだ服役中!前に話したハンドルのついてない自動車と同じだ!順調に行くわけでもなく、大人になっても規則に縛られる生活が嫌になり家出をして、色んなところに住んだ、でも住むとなれば職も必要になって来る、住むことろがあって仕事もできるとしたら派遣ぐらいしかないのだ、職場によるかもしれないが、派遣社員とは普通の社員と違って手取りはいいが仕事がだいたいきつくて長時間労働が多いのだ、仕事はきついでもやめたら帰るところもなく住むところもなくなる、生活するためにはしがみついてでも働くしかない、でもそのプレッシャーから解放してくれるのがお酒だった、お酒飲んでる時だけがプレッシャーから開放されたそれが癖になり親父と暮らす頃にはもう肝硬変になってたのかもしれない、心の甘えだろって思う人もいると思うけど俺にとっての逃げ道はそれぐらいしか無かったっていいわけさせてw

生い立ち(その8)

奄美大島に帰ったあとの記憶はそんなに覚えては無い、家に親族が集まり通夜みたいなことをしたり、骨壷を収めたり、あとはちょっと観光したぐらいかな?思い出がないと言うよりかは、思い出したくもない、数日島で過ごすことになったあと、ある日姉と兄に呼び出されとんでもない選択を迫られた!それはこれからの生活、きょうだいと生きていくか、服役中の親父をまつのか?の選択肢を出された!もうここで家族には戻れないと確信した、そして俺は親父を選び職員の支えは色々あったものの1人で生きていくことを決心した!中二の夏だった!でも1人になって色々成長できたようなきがする、いろいろなものなくしすぎたきもするけどね・・・

独り言

最初に恨んでないとブログで言ってたが1人だけ殺したいほど恨んでるヤツがいる、姉だ!

ブログを見てくれてる人なら分かると思うが、親父の服役が12年ってことは、俺が高校卒業してもまだ服役してることになる、高校卒業しても施設に一生いられるわけじゃない!と同時に指導者や支えてくれる人もいなくなる、今まで施設のルールで生きてきた人間が社会に出されても上手く生きて行けるわけもない、今まで学んだことも社会で役にたつわけもなく、甘い考えだと思うが1人で生きていくにわきついと思う、例えて言うならハンドルのついてない自動車と同じだ!
ハンドルがついてなければ真っ直ぐ走れるわけもなく親が出所するまでに後々ブログにも書くが相当辛く相当苦労した。
ブログを書く時に過去の事を振り返りながら書いてるのだが、途中から俺が何故こんな目に会わなきゃ行けなかったのか?と言う考えになり過去を遡って考えた、大抵の人が親父の暴力のせいだと思うだろう、しかし人間も1回や2回は失敗することもあると思う、そしてその事があり、姉が親と縁を切ったってのもわかる、しかし今まで育ててもらってなおかつ学費も生活費も姉に至っては自動車免許を取得するためのお金もだしてもらっといて、自分は裁判にも出廷せず代理人を通してめちゃくちゃな証言をした挙句死刑まで求刑したとか!しかも1人だけ警察に保護されたあと、親戚の家に引き取ってもらい弟もいるというのに、自分の事しか考えてなかったんかな高校まで卒業させてもらっといて。せめて育ててもらった恩として罪を軽くすることもできたろうに、そうすればまだ俺の人生苦労せずに生活できたと思うのに!
姉に会うことはもうないと思うがあった時はその時は…会いたくもない

生い立ち(その7)

中二の夏頃、母親もお酒を控えるようになり、ちょくちょく施設に面会に来てくれたり、家に帰らせても問題無いということで外出外泊の許可がおりるようになった。

母と外出したり買い物とかも連れて行ってもらって、誕生日の祝えてもらってなかった分のプレゼントなど買って貰って喜んで施設に帰った数週間後の事だった・・・職員達が企画してくれたキャンプを楽しみ施設に帰りついて片付けをみんなでしていた時だった。

何故か俺だけ職員に呼ばれ、ついて行った先で職員に言われた言葉が『昨日母親が・・・亡くなりました』と告げられた・・・

一瞬何を言われたのか理解できなかったむしろ職員の悪ふざけかと思ったぐらいだ、しばらくしてやっと言われた言葉が理解出来たが、理解したくなかった。

涙が止まらなかった箱ティッシュ1箱分使い切るほどに涙が止まらなかった、唯一の望みだった家族でまた生活するという事が不可能になったのだ、その時点で自分の中にある何かが切れた感じがした。

母の死で親族が集まることになり、長期の外泊許可がおり、葬儀と火葬が行われ、母の故郷である奄美大島に骨壷を持ち帰ることになった。

生い立ち(その6)

その前に親父の事を語ろうと思う、手紙のやり取りは月一でしててまだ刑期も決まってなく、俺が中二になったばかりの時に親父の刑期は決まった!懲役12年の刑が下されたのだ、家庭内暴力は罪が重いと聞いていたがこれはあまりに重すぎる刑だった!殺人罪の人より下手したら重い、何故こんなに重くなったのか?当時は分からなかったが出所した親父に聞いたところ、これまたテレビでしか見た事がない回答がかえってきた、拘束されて捕まってた警察署が当時、所長自身が自署の金庫を盗みだして逃走しだしたらしく、ニュースにも取り上げられたらしい。

その事があったことで世間の信頼がただ下がりになったためにその時タイミングよく捕まった親父で名誉を取り戻そうとしたらしく事件を大きくさせたとか、ここからは憶測でしかないが、弁護士も雇う金などもちろん持ち合わせていなかったため国選弁護士が着くことになったのだが、検事と裏でお金のやり取りがあったのか、裁判とかでも全然弁護してくれなかったとか。

おそらく警察署から金を積まれ検事と弁護士で組んでたのかもしれない。証人も呼べたのだがほんとかどうか分からないが呼ぶはずだった証人も病気でなくなってたとか、もうこうなると裁判で被害者と検事の一方的な発言で12年という長さになったのであろう・・・

じゃなきゃそれぐらいの刑の長さにはならないはず

次回からは話に戻ろう

生い立ち(その5)

しばらく児童相談所に預けられた後、他の養護施設に移動することになった、その施設では今で言う体罰とかを普通にする施設だった、言うことを聞かなかったり反抗的な態度、または職員の機嫌で殴って来たりする施設だったのだ!規制とかも厳しく外出は施設内のグラウンド内と上級生組は近くのレンタルショップまでなら許されてた、少年院の事はあまり知らないが、少年院に入れられた気分だった。
でも全部が全部厳しいわけではなかった、逆に感謝してるくらいだ、その施設に入ってたおかけで、内面的、身体的にも成長出来たし、教育の仕方も上手いなと思ったくらいだ!、普段は厳しいが夜勤の職員さんとかは、就寝時間とかは決められてたり、余暇の時間も決められてるが、真面目に職員の言う事を聞いている人だけ、夜更かしして寝れるまでゲームなどさせてくれたり職員室のパソコンとかで自由に動画とか見れたり、特別感をだすことによって伸ばしてくれてたのかもしれない、そして学校は転校生だったってこともありクラスには馴染めなかった。
親父とは母親が面会で自分のいる住所とかを伝えており、手紙でやり取りしていた、そして生活にも慣れ、施設内でも友達ができ、生活にも慣れてきて、まだ自分は家族でやり直せるだろうと考えてた中二の夏の頃だった・・・